MENU

ALMA望遠鏡で探る生命誕生の謎

No.361/2014年5月号
国立天文台名誉教授  ALMA 計画準備室および ALMA 推進室初代室長 石黒 正人
国立天文台名誉教授
ALMA計画準備室およびALMA推進室初代室長 
石黒 正人
ALMA望遠鏡(アタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計)の観測結果が出始めていますが、ALMAをいつ頃から計画なさっていたのですか。
石黒:その種は1983年頃にはできていました。1982年に野辺山の45m電波望遠鏡が、そして1985年には口径10mのパラボラアンテナ5台からなる野辺山ミリ波干渉計が完成しました。その後、日本の電波天文学の将来をどうしようか、という議論の中で出てきた候補の1つでした。
野辺山の望遠鏡は、多くの星間分子や銀河中心にある巨大ブラックホールの発見、生まれたての惑星系の姿を世界で初めて画像化するなど多くの成果を上げ、日本の電波天文学は世界のトップを走るようになりました。そこで次は、宇宙からくるサブミリ波をターゲットに、たくさんのパラボラアンテナを設置して口径をできるだけ大きくしようと…。
サブミリ波は大気中の水蒸気などに吸収されてしまうので、日本のチームは、大気が薄く乾燥していて、かつ多くのアンテナを設置できる所という条件で世界中を探し、チリ北部のアタカマ砂漠にある標高5,000mの広大な平原がベストだと判断しました。
ちょうど、米欧でも大型の電波干渉計の計画が始動しており、日米欧が共同して最高性能の電波干渉計をつくろうということになり、2001年に東京で開催した会議で正式に合意しました。観測対象も米欧のいうミリ波だけではなく、日本の提案する難しいサブミリ波も入れようという計画になりました。
にもかかわらず、政府予算がつかずに苦労なさったと聞いていますが…。
石黒:小泉純一郎首相下で、文部省と科学技術庁が統合される時だったので、こういう時期には大きな予算はつけられないと、2年間待たされました。その間、予算がついた米欧は、日本が参加できなくなることを危惧して、計画を組み替えました。2004年に予算がついて、日本が正式に復帰した時には、その計画に付加するという形になりました。しかし、最初に5,000mの地にアンテナを設置したのは日本で、頑張って2年の遅れを取り戻しました。
0.3ミリという最も波長の短い電波を検出する受信機の開発を日本が担当しましたが、計画の中で最も難しい技術開発の1つでした。国立天文台が中心となり、超電導の低雑音受信機の開発に成功しています。また、サブミリ波を受けるアンテナの鏡面には高い精度が要求されますが、口径12mアンテナの鏡面に食品用ラップの厚みくらいの誤差しかないという精度を実現しています。日本の大手メーカーはもちろん、多数の中小企業の高い技術力の結集の賜物がALMAの髄となっています。
66台のアンテナを5,000mの地に設置し、 最大18.5kmの口径を実現することが可能です。2台の運搬台車を使ってアンテナの配列を変えることで、ズームレンズの働きをさせ、広げると望遠レンズ、縮めると広角レンズになります。高山病や思考が鈍ることを避けるため、観測のコントロールは標高2,900mの施設から行います。
ALMAの観測の目的は何ですか?
石黒:電波は、光を出さない、冷たい物質の姿を浮かび上がらせますが、これによって大きくは3つ探ろうとしています。
1つ目は、暗黒時代直後の銀河誕生の様子を探ること、2つ目は、ガスや塵のかたまりから恒星や惑星が誕生する様子を明らかにすること、3つ目は生命がどこからきたかを探ることです。すでにALMAで、誕生したばかりの若い星の周りで、グリコールアルデヒドという糖類の分子を見つけています。
さらに、最も簡単なアミノ酸であるグリシンが誕生直後の惑星の周りにないかを探ろうとしています。すでに太陽系内の彗星からは探査機によりグリシンが発見されています。もし、誕生直後の星の周りにグリシンがあったとしたら、星や惑星の誕生と、生命の誕生がリンクしている可能性があり、宇宙の誕生から私たちの存在までの道のり、進化の歴史に重要なヒントをもたらします。
画:クロイワ カズ

※本企画は、当社の協賛で日経サイエンス誌に広告として掲載しているものであり、当社の研究開発、製品等と直接の関係はございません


この頁についてのお問い合わせは下記まで