◆◇小さな親切大きなお世話◇◆

専任手話通訳者 梅田 晶子 キャラクター

わたしが手話をはじめて3年目だったでしょうか、私の通う手話サークルに未就学の聴覚障害者のお年寄りが来られました。私が身振り手振りでお相手したら、とてもうれしそうにして帰っていかれたのです。私はこの方が言葉を身につけたら、手話をてるてる坊主身につけたら、この方の人生はどんなに豊かになるだろう、そう思いました。それで、その次に来られるまでに絵カードを用意して、お会いした時に一生懸命教えました。その時に気づけば良かったのです。きっと困ったような顔をしておられたはずです。でも、私は良い事をしていると思っていましたから、その次の週も同じようにやりました。それきりです。二度と来られませんでした。彼の人生を救うのは私だと思いあがっていたわけではないのですが、何とかしてあげたいと思っていましたから、自分の行動が見えてなかったのですね。相手の方の発達要求と言うのでしょうか、言葉を知りたいと言う気持ちが出てくるまで待てば良かったのです。ダメなのですね。相手の求めているものが何なのかをしっかりつかんでおかないと、どんなに良い事でも小さな親切、大きなお世話になってしまうのです。とても大きな教訓でした。
 職場でも同じです。私の働く職場ではさまざまな障害者が働いています。同じ聴覚障害ひとつをとっても、全く聞こえない人、補聴器の利用でほとんど聞き取れる人、またコミュニケーションにしても、文章力、手話の取得レベルはまちまちです。それぞれが自分に適したコミュニケーション方法を身につけていく、また回りに働きかけていくことが必要になります。どんなに周りでお膳立てしても、本人にその気がなければ意味のないことになるのです。「自己責任」という言葉が盛んに言われる世の中ですが、ここでもそれは問われることになります。それぞれの障害は本人にしか分からない部分があるのですから、自ら求めていかないものは与えられません。すいせん
 ただ、それでも思うのです。やはり数の多いほうが強い世の中です。少数者が意見を言える環境になっているだろうか?それがなければ本当のバリアフリーにはならないと思うのです。そして、もうひとつすべて「自己責任」で解決できるのだろうか?ということです。
 ある時出会った人に「通訳さん、心配は分かるけど堕落していく自由もあるんだよ。」と言われました。そうかもしれません。でも、それでも思うのです。それは、十分に情報提供をした上での判断なのだろうか?判断力の十分に備わっていない人はどうするのだろうか?やはり関わっていくべきではないのでしょうか?

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